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ウェイン・ルーニー [人]

ウェイン・マーク・ルーニー(Wayne Mark Rooney, 1985年10月24日 - )は、イングランドのサッカー選手。リヴァプール出身。アイルランド系。ポジションはフォワード。イングランドのマンチェスター・ユナイテッドFC所属。イングランド代表。リヴァプール北東部に位置するクロクステスの出身[3]。1995年に地元のサッカークラブのエヴァートンFCの下部組織に入団し、2002年8月17日、プレミアリーグの開幕戦に16歳と298日でトップデビュー[4]。同年10月2日のリーグカップ、レックスハムAFC戦で初ゴール(2ゴール)を挙げ[5]、17日後の同年10月19日のプレミアリーグのアーセナルFC戦でもゴールを挙げ、当時のプレミアリーグ最年少得点記録を16歳と360日で更新するとともに[6](2か月後の同年12月28日にジェイムズ・ミルナーが16歳と309日でその記録を更新しており、2005年4月10日にはジェームズ・ヴォーンが16歳と271日でさらに記録を更新している)、アーセナルFCの無敗記録を30試合でストップさせている[7]。同年12月、BBCスポーツによる2002年度の年間新人最優秀スポーツ選手に選ばれる[8]。同年12月26日にはプレミアリーグのバーミンガム・シティFC戦で相手ディフェンダーのスティーヴ・ヴィッカーズにスライディング・タックルをしかけて初のレッドカードを貰っている[9](ちなみに、この時、イエローカードは4枚貰っていた)[3]。2003年1月、プロ契約を結ぶ[10](FAの規定により17歳未満の選手はプロ契約できない。それまでは練習生であった)。2003年2月にイングランド代表に初招集される[11](イングランド代表については代表を参照)。
2003-04シーズン、26試合に先発出場(デビューシーズンは途中出場が半分以上だった)、9得点を記録。監督デイヴィッド・モイーズと関係が悪化し、退団を決意[3]。2004年8月31日に移籍金2,560万ポンド、6年契約でマンチェスター・ユナイテッドFCに移籍した[12]。
2004-05シーズン、欧州選手権での怪我の影響によりシーズン開幕に出遅れるも、2004年9月28日のUEFAチャンピオンズリーグ、オールド・トラッフォードでのフェネルバフチェSK戦に先発出場するとハットトリックと1アシストの活躍でチームの勝利に貢献するとともに[13]チャンピオンズリーグの最年少ハットトリック記録を18歳と335日で更新する[14](また、このデビュー戦以後ルーニーがゴールを決めるとユナイテッドは必ず勝つというジンクスが約1年4か月続く)。19歳の誕生日となる10月24日のプレミアリーグのアーセナルFC戦で、再び無敗記録を49試合にまで伸ばしていたアーセナルFCをPKと終了間際の1得点で破る[3]。2005年5月21日、FAカップの決勝戦でアーセナルFCにPK戦の末に敗れるもルーニーはMVPを受賞[15]。チーム最多の17ゴールでシーズンを終え、PFA年間最優秀若手選手賞も受賞したが、イエローカードも累計で17枚貰った[3]。
2005-06シーズン、チームはリーグカップで優勝し、ルーニーは決勝戦のウィガン・アスレティックFC戦で2ゴールを挙げマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(また自身初のタイトル獲得となった)[16]。プレミアリーグ終盤の4月29日、チェルシーFCとの試合でパウロ・フェレイラと接触し右足第4中足骨ほか複数個所を骨折してシーズンを終えた[17][3]。チーム最多の18ゴール、10アシストを挙げ、PFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。
2006-07シーズン、リーグに35試合出場し14得点13アシストを記録。若返りを図り無冠が続いたチームに4年ぶりのリーグ優勝を齎した。
2007-08シーズン、背番号8を背番号10に変更。リーグを2連覇し、UEFAチャンピオンズリーグを優勝。
2008-09シーズンは12月に行われたFIFAクラブワールドカップのガンバ大阪戦で2ゴール、LDUキト戦で決勝ゴールを挙げるなど3得点で得点王とMVPを獲得。プレミアリーグでもリーグ6位タイの12ゴールを挙げリーグ3連覇に貢献した。UEFAチャンピオンズリーグでは2年連続で決勝に進出したものの、準優勝に終わった。
2009-10シーズン開幕戦で得点を挙げ、プレミアリーグ通算100得点を達成した。またウィガン戦でもゴールを決め、ユナイテッドでの公式戦100ゴールをマークした。しかしUEFAチャンピオンズリーグ準決勝1stレグのバイエルン・ミュンヘン戦で負傷し、ファーガソン監督は完治しないまま2ndレグでもルーニーを起用。チームはアウェーゴールの差で敗退し、自身の怪我も悪化してしまった。リーグ戦では31節までに26ゴールを記録していたが結局その後に1ゴールも決めることができず、得点王もチェルシーのディディエ・ドログバに譲った。
2010-2011シーズンは開幕から出遅れ、一時は移籍願望を表明していたものの[18]、直後の2010年10月22日に2015年まで契約を延長した[19]。2011年2月12日のマンチェスター・シティとのホームでのダービーマッチにて、1-1の後半33分、右からのクロスに跳び上がってオーバーヘッドキック。ゴール右隅に蹴り込んだ。ファーガソン監督は「素晴らしいゴールは他にもあったが、見事さでは並ぶものがない」と絶賛し、ルーニーも「蹴った瞬間に自分の最高の得点になると分かった」と、自画自賛した[20]。このゴールはプレミアリーグ20周年を記念したベストゴール投票で1位に選ばれた[21]。4月2日のウェストハム戦でハットトリックを挙げ、ユナイテッド移籍後のプレミアリーグ通算100得点を達成した[22]。
2011-12シーズンは開幕戦からゴールをあげ、3節のアーセナル戦ではFK2本とPKでハットトリックを達成し、8-2の大勝を導いた。直後のボルトン戦でもハットトリックを達成した。ルーニーはこのシーズン2009-10シーズンに記録した26ゴールを更新する自己最多の27ゴールを挙げた。
2012-13シーズンのホーム最終戦のスウォンジ戦後、今シーズン限りで退団が決定したアレックス・ファーガソン監督がルーニーの移籍志願を明かした[23]。2003年2月12日にA代表に初招集され、2月17日のオーストラリア代表との親善試合で17歳と111日でA代表デビューした。マイケル・オーウェンの持つ18歳と59日での代表最年少出場記録を更新したが、2006年5月30日にセオ・ウォルコットが17歳と75日でその記録を更新した。同年9月6日に行われたEURO2004予選、アウェーでのマケドニア戦で17歳と317日で初ゴールを決め、イングランド代表最年少得点記録を更新した。
2004年、ポルトガルで開催されたEURO2004のイングランド代表メンバーに選出される。第1戦目となる6月13日のフランス戦に先発出場。続くスイス戦にも先発出場すると、前半23分と後半30分にゴールを決めチームの勝利に貢献し、本大会における最年少得点記録を更新した(が、4日後にスイス代表のヨハン・フォンランテンがその記録を更新した)。グループリーグ最終戦となるクロアチア戦にも先発出場し、スイス戦に続き2ゴールを挙げ、同試合のMVPに輝く。チームはBグループを2位通過するも準々決勝、開催国ポルトガルの前にPK戦の末に6対5で敗退。ルーニーは前半30分に左足甲を骨折し、負傷交代した。
2006年ドイツW杯、2005-06シーズン終盤に負った怪我の影響により6月10日の初戦に出遅れるも、6月15日のトリニダード・トバゴ戦に途中出場、6月20日のスウェーデン戦に先発出場し、無得点に終わるもチームは2勝1分でBグループを首位通過。マイケル・オーウェンの膝十字靭帯の断裂により、以後1トップに固定される。7月1日の準々決勝、EURO2004で敗退を喫したポルトガルとの試合で、後半17分にリカルド・カルヴァーリョの股間を踏みつけたとして主審オラシオ・エリソンドから退場処分を受ける。試合は延長戦まで持ち込まれ、チームはPK戦の末に3対1で敗退した。
2010年 南アフリカ大会では、大会前のシーズンで自己最多26得点をあげたことや、10番を託されたこともあり大きな期待を寄せられたが、大会中は不振に悩まされ結局2大会連続無得点に終わった。
2010年 南アフリカ大会のグループリーグアルジェリア戦に引き分けた直後、ブーイングをしていたサポーターに対して「ブーイングしてくれてうれしいね。これが忠実なサポートというもんだ」と吐き捨てた。
2011年10月7日、EURO2012予選G組の対モンテネグロ戦(モンテネグロ)にて、相手選手を蹴り一発退場処分を受けた[24]。これを受けてUEFAが10月13日、ルーニーに対してEURO2012本大会一次リーグ3試合全てを対象とする出場停止処分を科した[25]。12月8日、UEFAはこの処分に異議を申し立てていたルーニーの聴聞会を開き、出場停止処分を3試合から2試合に軽減した[26]。UEFA EURO 2012では出場停止が明けたグループリーグ第3戦のウクライナ戦で先発出場し、決勝点を挙げイングランドの首位通過に貢献した[27]。
植毛について[編集]

2010年に投票で「最も醜いサッカー選手」に選ばれた[28]ルーニーの外見上の特徴の一つとして、頭髪の薄さが挙げられる。クリスティアーノ・ロナウドやリオ・ファーディナンド、ウェズ・ブラウンらに連日のように薄毛をからかわれ、ルーニーの誕生日にかつらをプレゼントされる、マイケル・オーウェンにTwitterで「顔は12歳児のようだけど、髪の毛は60歳」とつぶやかれる[29]など、チームメイトから日常的にネタにされていたという。
2011年6月にロンドンの有名医院にて植毛手術を行ったことをTwitterにて報告。植毛を行った理由について「25歳でハゲるつもりはなかったから」と語った[30]。植毛手術には1万ポンド(約138万円)を費やし、さらに手術後にはフォロワーに対して整髪用ジェルに関する意見を募った[31]。 このルーニーの植毛には世界中が注目し、カミングアウトした勇気を讃えるメディア、オフ期間にサッカー以外の話題で注目を浴びることへの懐疑的な意見を持つメディアのほか、この件をさらにネタにするメディアなど、反応は賛否両論であった[32]。イギリス紙ザ・サンは、「Hair we grow!(here we go!をもじったもの)」という見出しをつけて大きく報じた[33]。 余談であるが、ルーニーが植毛手術を行った直後に同じマンチェスター・ユナイテッドのライアン・ギグスが2009年に植毛手術を行ったことが明らかになった[34]。
人物[編集]

ルーニーという父方の姓はアイルランドにルーツをもつ[3]。ファーストネームのウェインについても同様である。
2003年に幼馴染のコリーン・マクローリンと婚約し、2008年に晴れて結婚した[35]。2009年11月2日に長男が[36]、2013年5月21日に二男が誕生した[37]。
性格は短気で癇癪持ち。試合中、そのせいで退場することも多く、メディア批判の対象になっている。
父親は少年サッカーのコーチだった。父親とおじはサッカーの試合を操作したとして逮捕されたことがある[38]。
弟の1人のジョン・ルーニーもサッカー選手。
幼少期は後に選手として所属するエヴァートンFC のファンであり、ライバルチームのリヴァプールFCが嫌いである。そのため、ユナイテッド移籍後もアンフィールドでは激しいブーイングを受ける(もっとも、ユナイテッドとリヴァプールの間柄もライバル関係である)。
スポーツ選手だが喫煙者であり、酔っ払って屋外で喫煙し、さらにトイレではない場所で放尿したことをマスコミにスクープされた。この件で、コカコーラとのスポンサー契約を一時中断する事態になった。[39]
コリーン夫人の妊娠中に21歳のコールガール(売春婦)と不倫関係が発覚し離婚の危機になった。関係はコリーンが息子のカイを出産する直前まで続いた。この騒動で、コカコーラのスポンサー契約を打ち切られた。
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